ヒラエッセイ
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1999年9月1日(水) メアリーは重要書類
運輸課の若手である富田君は、どこか抜けている青年だ。
コピーを頼めばなぜか1ページ抜けたものを作ってきたりするし、ページが前後していたりする。ひどいのになるとB4の原稿をA4の用紙にそのままの大きさでコピーして、真ん中しか写っていなかったりしても、平気で会議に持ってくるのだ。
「ばかやろう。お前はコピーの一つもできないのか。あんっ!?」
上司の松前部長は他の部員の手前格好が付かなかったせいか、カンカンに怒って富田君を怒鳴ったが、自分はコピー機の使い方をまるで知らない。
いくら怒鳴られようが怒られようが、彼が作ってくる会議資料はいつでも不完全なもので、必ず途中で不備な分を作り替えるために会議が中断していたのである。
そんな富田君も入社して2年3年すると、次第にそんな間違えも減ってきた。しかし、どういうわけか、たった一つだけ毎回同じ小さなチョンボがあるのだ。
「ばかやろう。お前、どうして添付書類の順番が毎回逆になってんだよ!」
松前部長はまたまた他部員の手前、怒鳴りまくった。
「いえ、逆になっているのは番号だけす。内容は正しいです」
富田君が作った資料は本文と5つの添付書類で構成されていた。本文を読みながら説明をしていくと、「添付書類○番参照」というのがでてきて、その添付書類に皆が目をやるという具合だ。
ところがこの添付書類のでてくる順番が、1号、4号、2号、3号、5号といった具合で、なぜかこれだけは毎回のことなのである。
「全くデタラメじゃないか、ばかやろう!」
「ですから、番号だけがそうなっているのであって、内容としてはなにも支障はありません」
「なんだとっ! 先週も同じ事を俺に言わせたよな」
確かに番号は見栄えだけの問題であって、何ら不都合はないのだから、ぼくはどうでも構わないと思う。しかし、松前部長は許さないのだ。
「どうして毎回毎回、同じ間違えをするんだ、おまえ!?」
「それは、僕が資料を作り上げるとあとになって部長が新しい添付書類を要求するからです。だから追加する羽目になるんです」
なるほど。これでわかった。
つまり、富田君が資料を作り上げようとすると松前部長が「おお、やっぱりこれも入れておいてくれ」なんて追加注文をするからこうなるのである。
「なにっ。だったらそのときに番号を振り直せばいいじゃないか、ばか!」
自分に矛先を向けられた松前部長は面白くない。しかし、富田君にも言い分はあるのだ。
「もう印刷したあとですよ。もったいないじゃないですか、紙と時間が!」
僕はどちらかというと富田君の意見に賛成だ。どうせ社内の会議なんだから、見栄えなんて二の次なのである。
「よし。それなら今日は良しとしてやろう。しかし来週の会議は外部の人も参加するんだから、こういうわけにはいかないぞ。添付書類が前後するようなことには絶対にならないようにしろ。いいな!」
松前部長は苦虫をかみつぶしたような顔をしながら、最後に吐き捨てるように言った。
この日はこれでバトルは終わり、そして次の週、親会社の社員を迎えての会議でほぼ同じメンバーが顔を揃えた。
噂によるとまたもや富田君の資料作成中に部長はああでもないこうでもないと内容を変更していたらしい。だから、はたして添付書類の順番は前後していないか、非常に楽しみなのである。
「みなさん、お忙しい中お集まりいただきましてありがとうございます。これから会議を開催します。それでは資料をお配りします。おい、富田」
「はい。それでは資料をお配りします」
事務の女の子が、富田君の用意したどっしりとした資料を参加者全員の前に置いた。そして富田君が資料の説明をはじめたのだ。
「お手元の資料をご確認ください。まず、本日の会議のレジメがあり、つぎに説明本分があります。それから4冊の添付書類があります」
緊張の一瞬だ。
「添付書類にはそれぞれ、『ジェニー』『ルーシー』『メアリー』『由美子』と名前が付いていますので、足りない方はおっしゃってください」
一瞬、みんなはあんぐりと口を開けた。なるほど。これならいかに順番が前後しても関係ない。富田君の名案だったのである。
「富田……あのな、おまえ……」
と、なにか言おうとした松前部長をさえぎり、親会社の社員が質問をした。
「富田さん、どうして一人だけ日本人の名前なんですか?」
「はい、実はこの添付書類に書かれているのがもっとも部長の頭を悩ませているたちの悪い問題でして、今日の議題のメインになります。『由美子』というのは松前部長の奥さんのお名前であります」
頭を抱える部長をよそに、会議室は大爆笑だったのである。
1999年9月2日(木) 常連客は貧乏神
僕はタバコは吸わないが、酒は大好きだ。
酔って暴れたり、スーツ姿のままゲロまみれで駅のホームに横たわるようなこともなく、ゲラゲラ笑って楽しんで、ちゃんと自力で家まで帰る。僕はそんな酒の飲み方をしている。
酒のつまみはなんと言っても会話だ。
誰かと一緒に飲みに行くのならその人との会話を楽しめばいいし、一人で行くならカウンター越しにマスターとの気の置けない話を楽しみたい。
長い間行きつけにしているような店だと顔見知りの客と意気投合することもあって、それもなかなか面白いのである。
酒飲みにとって、店というのは大事な場所で、酒さえでればなんでもいいというものではない。そういう人は酒飲みと言うよりも、アル中に近い。
僕にも好みのタイプの店があり、課長とよく飲みに行くのだけれど、悲しいことにそんな店がこのところたちどころに3件ばかりつぶれたのである。
「ヒラリーマン、知ってるかあの店?」
「あの店? なんすか、いったい?」
「角ののんべい軒だよ。つぶれちまったぞ」
「え、うっそ。先週行きましたよ、ぼく」
「アホかお前。先週あったら今週もあるはずだという理屈はねーだろ。それじゃ、今日晴れだったら明日も晴れのはずで、そのあと一生晴れのはずだって理屈になるじゃねーか」
課長もお気に入りの店がなくなったので苛立っているのである。
「んじゃま、今日あたり新しい店を開拓しますか?」
「そだな。行こう行こう」
ということで、我々は新たなるオアシスを求めて、ネオンの中をくぐっていったのだ。
数年前から考えても、とにかく僕と課長が行きつけにする店はよくつぶれる。いや、絶対につぶれると言っていいほどの確率でつぶれるのだ。
最初は単純に景気のせいだと思っていたのだけれど、それは違うらしい。
分析の結果、我々は無意識のうちにつぶれるような店ばかり選んで通っていると言うことが判明したのである。
僕と課長の店の好みは合致している。それは、「やすい」「はやい」「しずか」「立地条件がいい」である。
つまり、いい場所にあるのにあまり客が入らなくて、それでいて安いという店なのだ。
高級だけど客は少な目で静かとか、ガヤガヤうるさいほど客がいるけれど安いという店ならば生き残れる。しかし、安くて客がいなくていい場所にあるというのでは、コストばかりがかかるのだから、これはもうつぶれるに決まっているのである。
この分析結果をもとに、我々は多少場所が悪くてもいいから、程々の店をみつけて常連になろうという作戦をとることにした。
やはり人間、決まった場所を持つと言うことは落ち着くことが出来ていい。だから酒飲みは決まった気の置けない店を持ちたがるのである。
「こんばんはぁ」
「へい、らっしゃい」
こじんまりとした小料理屋に入った。なかなか雰囲気の良い店で、小綺麗だしメニューを見るとそう高くもなさそうだ。それにカウンターとテーブルが4つの店だから、そんなにうるさくなることもないだろう。
僕は直感的に「もしかしたら定期的に飲みに来る、我々のオアシスになるかも知れない」と感じた。
「なんにしましょ」
「そうだな。まずは中生でおねがいします」
「へい、中生2つっ。お客さん、はじめてですね?」
「そうなんですよ。どこかいい店はないかと開拓に来ましてね。何となく雰囲気良さそうだったから、入ってみたんです」
「あ、そうすか。それはありがとうございます。一つよろしくお願いいたします」
気さくなご主人に、気の利く奥さん。どうやらいい店にたどり着いたらしいのである。
「いやぁ、こんな近くにこんな感じのいい店があるとは知りませんでしたよ」
「ここはちょっと場所が悪いもんすからね、ちょっと奥に入っているでしょ。目立たないんすよ」
「そうですか。いやぁ、いい店を見つけました。ねぇ、課長?」
「そうだなぁ。あはははは」
「うちは狭いですがその分お客さんと和気藹々とやってるんすよ」
僕の好みのタイプの店だ。
「そうですか。気っぷのいいご主人に美人の女将さん。こりゃいい店だわ」
「あら、美人だなんて、もう。ビール一本、サービスしちゃおうからしら」
「そりゃ、うれしいなぁ。あはははは」
「こりゃたのしい。はっはっは」
実に楽しい、とても愉快な、はじめてきたとは思えない雰囲気に僕らは包まれ、今日は砂漠に水辺を見つけたに等しいと、大いに喜んだのであった。
課長が舌足らずで説明不足で中途半端で余計な話をするまでは……。
「あはははは。いやぁ、まいった。実に楽しい。いえ実はね、ご主人。今まで我々が飲みに行ってた店が全部つぶれちゃいましてね。つぶれる度に新しい店を探したんですがね。俺達が常連になると必ずその店は不思議とつぶれるんですよ。必ず、間違いなく、絶対につぶれるんですよ。あはははは。困っちゃったよなぁ。なぁ、ヒラリーマン。俺達が常連になると、必ずつぶれるよな。なっ」
「……」
これじゃタダの貧乏神。店の雰囲気はどっと暗くなり、そして二度といけない店になったのであった。
1999年9月6日(月) メンバーが揃わない
「おはよう!」
「おはよう」
「あれ。みんなは?」
「俺だけ」
今日は早朝野球。朝の5時半に集合して6時から試合をするという早朝リーグに、我が野球クラブは参加しているのだ。
遅刻は3千円の罰金ということなので急いできてみたら、時間ぎりぎりだというのに来ていたのは水道屋のまーちゃん一人だけだった。
「相手も来てないじゃない。まさか、連絡なしで試合中止って事はないよね?」
「今日の相手はランナウェーズでしょ。あのチームはいつもどこかで集合してからいっせいに来るんだよ」
しばらくすると、2つ隣の市に住んでいる、馬場ちゃんがやってきた。
「おはようございます。他のみんなはどないしたんですか?」
「どないもこないも来てまへんのや。儲かりまっか、まぁまぁでんな。脳味噌ちゅーちゅーすーたろか」
「また、よーわけのわからんことを……」
大阪出身の馬場ちゃんが関西弁で喋ると、僕はついつい意味不明な関西弁を口走ってしまうのだ。
それから待つこと20分。試合開始時間の6時になったころに、サラ金取り立て屋のおーちゃんがやってきた。
「げっ。4人だけ?」
「そう。でも、相手も来てないし……」
「まぁ、こっちが揃ってないけどあっちも来てないならいいか」
そんなことを言っていたら、突然数台の車が現れ、あっと言う間にランナウェーズは9人揃ってしまったのである。
「やばくないっすか?」
「やばいよ」
こりゃまずい。相手が揃っているのにこっちがいないというのは草野球界では大変失礼な事なのだ。
相手はさっそくキャッチボールなどをはじめて、やる気満々なのである。
こうなると試合は不成立で、練習試合になってしまうのだけれど、たった4人ではそれもままならない。
これじゃ、きっと相手は怒るに違いないのだ。
「いい作戦があるよ」
こう言いだしたのは、おーちゃん。
「どんなの?」
「1人ずつ、こっそり帰る。んで、相手が気がつかないうちに全員逃げちゃう」
「アホか」
しかし、本当に逃げ出したい気分なのだ。
「もしもし、けいちゃん。いまどこ?」
僕は今日の試合を組んだマネージャーのけいちゃんに電話をしてみた。当然もうすぐそこまで来ているのだろうと思ってのことだった。ところが……。
「ふぁ〜ぅ。あんた、だれぇ?」
「誰って、ヒラリーマンだよ。野球場にいるんだけど、何してるの?」
「野球? うーーっ。今日野球だっけ?」
完全に寝ぼけている。
「だっけって……、あんたが組んだ試合でしょうが!」
「うーーっ。おやすみ」
こらこら、寝るな!
とにかく起こして、急いで来てもらうことにした。これで5人。あと4人だ。
「もしもし、くにちゃん? あのさ、野球なんだけどメンバーが足りなくて……、え、実家から親が来てる? いいじゃん、そんなじじーたち放っておけば」
おーちゃんもこんな滅茶苦茶を言いながら携帯電話でメンバーをあさりだしたのだ。
普段は、
「だめだめ。あいつ下手くそだから試合あるの黙っておこう」
なんて言っているくせに、こう言うときだけお願いするのである。
電話作戦でなんとかかんとかかき集めて、8人になった。結構みんな近くに住んでいるので、たたき起こせばすぐに集まるのである。
マネージャーのけいちゃんもさっそくやってきて、自分が寝ていたのを棚に上げて、
「集まりが悪いなぁ、まったく。揃わなかったらビールを飲みに行こう」
なんて呑気なことを言っているのだ。
「やばいよ。あと5分しても9人にならなかったら、不戦敗だってさ」
もう審判も来ていて、最後通告を突きつけられていたのだ。
今から誰を呼んでももう間に合わない。どう考えても無理だ。
我々はなすすべもなく、ただただ相手に謝る文句だけを考えはじめていた。
約束の5分が過ぎると、向こうにいる審判がチラリと腕時計を見て、そしてこちらに向かって足を踏み出してきた。
もうダメだ。
ところがそのとき、いつの間にかいなくなっていたけいちゃんがグランドの入り口で叫んだのだ。
「揃った。揃いましたよ、審判。9人目が来ました!」
「やったーーっ!」
けいちゃんと一緒に、トレパンの若い男がグランドに入ってきた。見たこともない人だけれど、きっとけいちゃんの知り合いで、電話で呼びつけられたのだろう。
かくして試合は成立し、無事始まったのだけれど、結果は10対1の惨敗。
試合ができただけでも相手への面目は立ったし、僕らも楽しむことができたので、それはよしとしよう。
「ところでけいちゃん。あのトレパンマン、名前はなんて言うの?」
「知らない」
「知らない? 友達なんでしょ?」
「いーや。そこをたまたま歩いていただけ」
げっ。
なんと、早朝の散歩をしていたひとを捕まえて、グランドに引きずり込んだらしいのである。
「野球はやったことがないからイヤだって言われたんだけどさ、無理矢理連れ込んじゃったんだ」
まったくひどい話だ。
しかし、それよりひどいのは、ヒットを打ったのがそのトレパンマン1人だけだったということなのである。
1999年9月17日(金) 京都夏旅行記2
それにしても夏の京都というのは暑い。日光が細胞をじりじりと焼いているような、そんな心持ちになるくらいの突き刺すような日差しなのだ。
このバスは嵯峨野の「トロッコ列車と川下り」だからいささか涼しいツアーであるはずだが、お寺巡りのバスになど乗ったら、死んでしまうのではないかと思うような暑さだ。
きっと彼らはすぐにそのツアーを選択した誤りに気づくことになるだろう。
我々のバスには中国語らしき言葉をチャイファイチャイファイ喋っている団体さん。なぜかヘラヘラ笑っている顎の突き出た20代の女性とその両親。あとはどこかのツアーのバッチをつけた人たちで70%程度の乗車率になっていた。
僕は中程の通路側に座り、僕の隣にはこのツアー唯一の1人旅の女性が座っているのだ。
簡単な挨拶をしてわかったことは、彼女の名前は東田澄子さんで、独身。傷心旅行ではなく以前訪れたことのある懐かしい風景をもう一度見たくなってこのバスに乗り込んだということだった。
そういえば澄子さんは色白丸顔で、悩みを抱えて旅をするようなイメージの女性とはかけ離れているような気がする。
バスはまず、嵐山へと向かった。
嵐山ではさっそく自由時間が2時間ほどあり、その間に散策をしたり食事をしたりするのである。
バスの中でオカチメンコのバスガイドさんが配った冊子には簡単な地図と食事どころの紹介などが記載され、別の紙にはそれらの割引券がついていた。
一軒だけ、やたらと力を入れて宣伝している食事どころがあったので、バス会社が推薦するほど美味しいのかと思ってガイドさんに聞いてみたら、それはそのバス会社が経営している店だった。
嵐山では「旅は道ずれ」ということで澄子さんとほうじ茶ソフトクリームでも食べながら散策しようと思っていたのだが、バスが駐車場に着くと、彼女は忽然と姿を消してしまった。
僕は仕方なく、照りつける太陽の熱でどろどろ溶けていくソフトクリームを必死に舐めながら、1人でトボトボと歩いていた。
汗がしたたり落ちてくるけれど、竹林に入るととたんに涼しくなる。ちょっと風があるとそこに昼寝をしたいような心地になって、何とも楽しい気分になってくるのだ。
嵐山での散歩が終わると僕は、あまり客の入りがよくないそば屋に入った。別に名産物を食べようという気はない。店の人とちょっと会話ができるような、そんな雰囲気の店が僕は好きなのだ。
僕は観光客が往来する通りに沿ったソバ屋にはいった。
1人旅だけれど僕は使い捨てカメラを買って持っていたので、旅の記念にでもと店の人にカメラを渡してそちらを向き、注文した地ビールを片手に笑い顔を作るのだが、店の人が要領を得なくていつまで経ってもシャッターが押さない。
おかげで僕はわざとらしくヘラヘラしているばか面を観光客にしばらく見られていたのである。
食事が終わるともうやることもなく、すぐにバスに戻ったが、澄子さんの姿は見えなかった。
散策していたときにはあちこち歩き回ったし、バスの乗客のほとんどとどこかであった。しかし、澄子さんには一度も会わなかったのである。
そういえば、あの顎の突き出た女性親子にも何度か出会った。
あの女性はニコニコ笑っているくせに、父親に向かってのみなぜか恐い顔になって、「うるせーな」などというのである。それを言い終わるとまたニコニコして周りを見たりしている。
それでもまた父親が世話を焼いて何かを言うと「なんだよ、いちいち。うっせーな」と口汚く罵っている。
いったいどういう関係の親子なのか。或いは親子じゃないのか。なんであんなに仲が悪いのに一緒にバスツアーに参加しているのか。よくわからない変な親子なのだ。
しばらくすると乗客達が集まりだし、バスはトロッコ列車の駅へ向かうことになった。しかし、東田澄子さんはまだ帰っていない。
「おかしいですね。お見かけしなかったし……」
「ガイドさんもですか。僕も会わなかったんですよ。最後に見たのはバスを降りるときでした」
バスが着くと同時に東田澄子さんは忽然とその姿を消したのである。
そして、出発の時間になっても彼女は戻ってこない。これはもしや「嵐山散歩道殺人事件」か。
しかし、バスガイドさんがあちこち走り回った結果、15分後に彼女はバスに戻ってきた。
「バスがたくさんあって、どのバスだかわからなくなってしまった」ということらしいのである。
バスが出発するとほんの数分で、トロッコ列車の駅に到着した。歩いてもいけるほどの距離だったのだ。
バスが到着するとみんないっせいに降り、駅に入っていく。
「トロッコ列車と川下りのみなさん。私の前に並んでください。いいですか。まだ入らないでくださいねぇl
ガイドさんはそう叫びながらチケットを数えそしてそして人数の確認をしているのである。
「あらま。1人足りないわ」
「だれでしょう?」
「あらら。また東田さんがいないわ」
バスの停留所から歩いて5分程度。その間に東田澄子さんは忽然とその姿を消したのである。
(つづく)
1999年9月20日(月) 京都夏旅行記3
京都は暑い。だから涼しい乗り物に乗ろうという考えで僕はトロッコ列車と川下りを選んだのだ。しかし、それはちょっと当てが外れてしまった。
「はいみなさん、こちらの車両のここからここまでがこのツアーのお席です。この範囲内におすわりくださーい」
そういわれた席は、普通の列車と同じ作り。つまり、オープンカーではなく屋根もあれば窓もあるという列車なのだ。
ここのトロッコ列車は3種類の車両があるらしい。一つは僕が乗った普通の列車タイプ。次が完全なオープンカー。もう一つが屋根だけあるタイプだ。
目玉焼きがやけそうなほどのじりじりとした太陽光線が降りさすこのカンカン照りの日に、エアコン設備のない普通の列車に乗るとどうなるか……。
「トロッコ列車」なんて言う言葉ですっかりだまされて、僕はそういうものに乗せられたのだ。
澄子さんはバスガイドが探したあげく、全く違うツアーの中でキョロキョロしているところを発見され、今は隣のボックスシートに座っている。
全く呑気なこの女性は「同じような団体がいるから、どっちだかわからなくなった」と言っていたらしい。
まるでサウナのような列車に乗り込んだ僕は、車掌のへたくそなシャレと、正面に座ったスリランカ人の訳の分からない会話で頭が痛くなってきた。
どうしてこのスリランカ人、「正面の男は日本人だからオレの言葉は通じないだろう」って思わないのだろうか。僕はどう見ても同邦じゃないのに、まるで友達にでも話すように、聞いたこともない言葉でべらべらしゃべっているのだ。
何かしゃべっちゃ1人で勝手に笑っている、変な奴なのである。
僕の方は仕方がないのでにこにこ笑って友好的な顔をつくりながら、
「なにいってんだかわからないんですよ、トンチキ。あんたはとってもまぬけ面ですね。顔がやたらと小さいですね。丸めた鼻くそみたいです。がはははは」
てな調子で言葉を返していたけれど、それもだんだん飽きてきてしまった。
トロッコ列車は鉄橋の上を走り、鉄橋の下には保津川が流れている。そしてその川には数隻の川下り用のボートが連なっているのである。僕らもうすぐあれに乗るのだ。
サービスというかおきまりの行動というか、トロッコ列車は鉄橋の上で停止し、乗客たちはしばらく眼下の渓流を眺めることができる。
船の乗客は上を向いて手を振り、列車の乗客もそれに応えて手を振っている。よくやる行動なんだけど、ありゃいったいなんだろう?
ああいう場面になると何の恥じらいもなくすぐに手を振る人。山に行くと急にいい人になっちゃって、
「こんにちわぁ」
なんて見も知らぬすれ違う人に挨拶しちゃう人を僕は「気持ち悪い」と思うのだが、みなさんはどうだろう。
よく、「山登りに悪いやつはいないよ」なんていうけれど、あれは登っている時だけいい奴なので、降りたとたんに悪い奴に変身するケースもすくなくない。突然デバガメになったり、ストーカーになったりするかも知れないので、若い女性諸君は山小屋で知り合った爽やかな青年に、安易に携帯電話の番号なんて教えてはいけないのである。
それと、これは男女ともに言えることなのだけれど、旅先で会った素敵な人は、なぜか会社の帰りに待ち合わせて再会してみると、その魅力度はだいたい「30%引」以下である。
人間は旅先ではイキイキとして自分も知らないうちに魅力がアップしているのではないだろうか。とにかく「ゲレンデの恋は都会へ持ち込んじゃダメよ」なんつーすかしたセリフも一理あるのだ。
トロッコ列車には30分ほど乗っただろうか。ここからは列車を降りてバスで保津川下りの出発点へ向かう。
「はーい、『トロッコ列車と川下り』のみなさんはこちらですよぅ〜」
三角のペナントみたいな旗を持つバスガイドさんに僕と東田澄子は並んでついていった。
トロッコ列車に乗っているほとんどの人が川下りを目当てに来ているらしく、降りる人でホームはいっぱいになり、階段はまるで通勤ラッシュみたいな状況だ。
おまけに階段が異常に細く、上り下りともに一列がやっと。僕は東田澄子さんの前に出て先を行った。
僕はバスガイドにくっついて行き、言われるがままにバスに乗り込んだ。幸いこのバスは冷房が効いていて、生き返ったような気がした。
冷風を顔に当てて一息ついている乗客と違って、バスガイドさんはすぐに人数の確認をするためにせわしく動いているのだから、なんとも大変な仕事だ。
「1,2,3,4,5……22,23……あれぇ。1,2,3,4……うーんと、おかしいなぁ」
「どうしました?」
「いえ、なんでも……。1,2,3,4……。やっぱり足りない」
「またですか?」
「ええ。足りません。えっと……あ、東田澄子さんがいませんね」
「そ、そんな。さっきまで僕と一緒に……」
東田澄子さんは、駅の階段から駅前の駐車場に向かうほんの2,3分の間に、忽然と姿を消したのであった。
またかい……。
(つづく)
1999年9月22日(水) 京都夏旅行記4
忽然と姿を消してしまった(こればっかり)東田澄子さんは5分待っても10分待っても現れなかった。
「私、探してきます」
オカチメンコバスガイドさんがしびれを切らして探しに出てしまったので、僕としてはちょっと安心した。
なにしろバスガイドがいないとなればその間は「じゃ、仕方ないから行きましょう」などということはないからだ。
1人旅でせっかく知り合った唯一の同志をここで失うのは寂しいのである。
実はここにくるまでにすでに3人の人が脱落したのだ。
「ちゃんと時間までにバスにお戻りでない場合は仕方ないのですよ、他のお客様の迷惑にもなるし」
おいてけぼりで出発したとき、オカチメンコバスガイドは言い訳をするようにそう説明していたけれど、それはバスの中でワンカップなんぞを飲みながら真っ赤な顔で「ねーちゃん、いいケツしてるのう。ぎゃははっは」とガイドさんをからかっていたスケベジジイだったからそういう扱いになったのであって、女性の1人旅が相手となるとむげに置いていったりはしないのだ。
誰も文句を言うことなく待つこと15分程度。バスガイドさんは走って戻ってくると、運転手さんに言った。
「出発してください」
あーらま。ついにおいてけぼり……。あきらめたらしいのだ。とおもいきや、そうではなかった。
バスガイドさんの話によると、東田さんは我々のバスの隣に止まっていた、同じバス会社の違うツアーのバスに乗っていたのだそうだ。
「バスが2台あったから、どっちかわからなかった」
と彼女はいっていたらしいけれど、バスにはちゃんとツアー名が書いてある。
そして、そのバスも同じ川下りの乗り場に行くのでそのまま乗っていくことになったのだそうだ。
まったく人騒がせな人なのである。
バスが船の乗り場に着くとそこにはいろいろなツアーの客やフリーできている人で一杯だった。
我々が乗る船は最初から別に用意されているらしく、その船が用意されるまでしばらく待たされた。
待合室にはいろいろな芸能人のサインが書かれた色紙がたくさん貼ってある。それを眺めながらボケッとしていたら、東田澄子さんもそこでソフトクリームをぺろぺろ舐めながら同じように眺めていた。
「トロッコ列車と川下りのお客様。ご用意ができました。船着き場でお待ちください」
場内放送が流れて、僕たちは階段を下りていった。待合室は川から10メートルくらい上にあって、川が増水しても大丈夫な場所にある。だから、船に乗るときには階段を下りるのだ。
指示通り僕は船着き場へ行くと、4艘あるうちの1艘の前に僕は並んだ。バスに乗ったときに渡されていた番号によってどの船に乗るかは決まっている。
「1番の札をお持ちの方から順番に2,3,4となります。お手持ちの番号の船に乗ってください」
僕の船は一番最後の船だった。
この船は20歳くらいの若い船頭さんと60くらいのベテランの船頭さん2人の合計3人がその船を操るらしく乗り込んでいる。
そして若い船頭さんがロープを掴んで船を固定している間に僕らは船に乗り込んだのだ。
「これで全部ですか、ガイドさん?」
最年長らしい船頭さんがガイドさんにそう訪ねると、ガイドさんは4つの船を船の中を見渡わし、そしてガックリと肩を落とした。
「ああ……また東田さんがいない……」
東田澄子さんは待合室から船着き場までの間に、忽然と姿を消してしまったのであった。
いい加減にしてくれ……。
(つづく)
1999年9月24日(金) 京都夏旅行記5(完)
川下りなんて、どうせほんのちょっと下っただけで、
「ハーイ楽しかったですねぇ、はいはいはい。おしまーーい」
という具合にすぐに終わるのだと思っていたのだけれど、この川下りはそんなものではなかった。
ゆったりとした中流の流れからスタートし、渓流の激しい流れを楽しんで下流にまでいく、2時間のコースなのだ。
「では出発しまーす」
若い船頭さん1人が船の舳先に立ち、竿を川底に突き刺して船を動かした。
彼は舳先に立って竿を突き立てると、竿に力を入れたまま船の左端を3メートルほど走って船に勢いをつけるのだ。
若い船頭は立ってそれをやっているけれど、船の右前にはもう1人60過ぎの船頭さんがいて、座ったまま漕いでいる。
そして、一番後ろにも船頭がいて、かれは舵を担当しているのである。
川下りというのは川の流れを動力として、あとは舵を取るだけなのかと思っていたのだけれど、それは違った。
彼らはずっと船を漕ぎ続けているのだ。大変な労力なのである。
僕は船の左前に座ったので、座って漕いでいる小松方正みたいな顔の渋い船頭さんと向かい合わせになった。
船がしばらく下っていくと、河原に白い鳥が立っていた。とまっていたと言うよりも立っていたという言い方がふさわしい程足が長く、すくっとした姿勢でじっとしているのだ。
「船頭さん、あれはなんていう鳥ですか?」
僕は小松方正に聞いた。小松船頭は首をひねって後ろを向き、鳥を見ると黙り込んで下を向いてしまった。そしてぼそっと言ったのだ。
「あれは……つくりもんだから」
なーんだ。作り物だったのか。つまり、川下りの客に見せるための、作り物の鳥を河原に飾っているのである。
つまらないことをするものだと僕が納得しかけたとき、鳥の首が左右にキュッキュッと動いた。
「船頭さん。動きましたけど……?」
「ああ。太陽電池だねぇ、うん」
なんと、太陽電池で動いているというのだ。よくもまぁ、そんなものをわざわざ取り付けたものだとそう思ったとたんに、その鳥は空高く舞い上がったのである。
「あの……飛んだんですけど」
「ああ。最近の太陽電池は軽いから……」
いい加減なことを言うジジイなのだ。鳥の名前を知らないなら、「知らない」と言えばいいのである。
「船頭さん。今、ウナギみたいなのがいたわよ。なにかしら」
僕の隣のおばさんが叫んだ。すると小松方正は顔色一つ変えずに言った。
「ああ。海ヘビだねぇ、うん」
川に海ヘビがいるもんか!
そんなとぼけた小松方正の語り口で乗客達は楽しみ、彼がいい加減なことを言う度にゲラゲラ笑っていたのである。
渓流にさしかかると船は大きく揺れ、岩で跳ね返った波が船に被さってきた。僕らはそれをビニールシートで防御しながら、ジェットコースターとはまた違ったスリルを味わっていたのだ。
30分ほど渓流を通ると、今度は静かな流れに変わった。
カナディアンカヌーでゆっくり漕ぎたくなるような下流の、のんびりとした流れを下ってカーブを曲がると今度は、河原で抱き合っている男女が現れた。
「船頭さん。あのカップルは……」
「作りもんだね」
「動いてますねぇ」
「太陽電池で……」
「飛びましたよ」
「ああ。最近のは軽い……え、うそ!」
「あはははは!」
そんな会話を楽しみながら、あっと言う間の2時間が過ぎ、船はさっき僕がソバを食べていたあたりの桟橋に寄せられた。
僕は船を下りると今下ってきた川を改めて眺め、少し下がって船と川を一緒に眺めたりしていた。
「愛場さん。やっぱりでした」
そこにバスガイドさんが走ってきた。
「やっぱりでしたか」
「ええ、まったく人騒がせな人ですよね」
「まあ、いいじゃないですか。いらっしゃったのなら」
船に乗る前に忽然と姿を消していた東田澄子さんは、ちゃっかり一番前の船に乗り込んでいたのだ。
僕とガイドさんは「どうせ違う船に乗っていますよ」と、高をくくっていたのである。
「ほら、あそこ」
ガイドさんが指さしたベンチに、東田さんはちょこんと座り、川を眺めていた。僕とガイドさんは、東田さんの座るベンチに近付いていった。
「綺麗な川ですね。いえ、水質じゃなくて眺めがです」
僕は東田さんの隣りに座った。
「ここへ来たのはもう、随分と前のことです……」
東田さんは遠い目をしてその美しい景色を眺めていた。なんだかとんでもない昔の、セピア色になった記憶を辿るような表情だった。
バスツアーはここから京都駅へ行き、駅に着くと終了する。しかし、僕はこの近所に宿を取っていたので、ガイドさんにその旨を話し、ここで皆さんとお別れすることにした。
「お楽しみいただけましたか?」
「ええ。トロッコは暑かったですけど、川下りはよかったです。嵐山の散歩もなかなかでした。ガイドさんは毎日これに乗っているのですか?」
「いえ、交代制ですから、毎日違うツアーに行きます。今日はいろいろご心配をおかけしまして申し訳ありませんでした」
「とんでもありません。東田さん、1人旅とは凄いですよね。ここには余程の思い出がおありのようです」
「ええ。ツアーの前にうかがったのですが、結婚されたばかりのころご主人とここにいらしたことがあるのだそうです。その思い出を辿ってのご旅行なのでしょう。そのご主人もお亡くなりになったとか……」
「そういうことですか。しかし、あの暑い中、何事もなくてよかったです。僕が言うのも変ですが、京都駅までよろしくお願いします」
「はい、おまかせください。しかし感心しますよね」
もう日も傾き、気温はピークを過ぎただろうけれど、日差しを浴びると汗が噴き出してくる。
京都は盆地。冬は寒く夏は暑い。しかし、こんなすばらしい景色があるのだ。
東田さんはきっと、この美しい景色に溶け込むような甘い思い出を胸に抱いてこの旅にでたのだろう。
「凄いですよねぇ、1人旅ですもんねぇ」
「でも、ときたまいなくなっちゃって、『ここはどこ?』になっちゃうのがそれらしいですよねぇ」
「91歳ですからねぇ」
と、僕とガイドさんは東田澄子さんの曲がった腰を眺めながら囁きあうのであった。
(おわり)
1999年9月29日(水) ユースホステルに泊まろう1
大阪出張のついでに京都旅行に出た僕は観光バスをおり、路線バスに乗り換えて予約をしておいたユースホステルに向かった。
サラリーマンの出張には会社から出張旅費というのが支給される。そしてその旅費のほとんどは交通費と宿泊費で構成されているのだ。
このうち宿泊費は会社によって支給金額の決定方式がちがい、実費型と固定費型がある。
実費型と言うのは実際にかかった金額を支給するというもので、領収書が必要だ。だらといって、ジョンレノンが泊っていたような1泊30万円なんていうホテルに泊ることはできない。大概は上限が決まっているのだ。
一方固定費型は安いところに泊ろうが高いところに泊ろうが支給額が決まっているので、支給額よりも安いところに泊れば差額は懐に入り、高いところに泊れば身銭を切ることになる。
わが社の場合は定額型で1泊1万円だけれど知人宅宿泊の場合だけは3千円しかもらえない。つまり、宿泊施設に泊れば1万円だから、キャンプ場でテントを張っても1万円なのである。
さすがにキャンプはできないけれど、なるべく安い宿に泊ることで僕は京都での遊び賃をいくらかでも補てんしようと考えて、昔よく使ったユースホステルに思い出をたどる意味もあって、泊ったのである。
ユースホステルというのは世界中にある宿泊施設で、青少年が貧乏旅行をできるように安価に設定されている。僕が高校生の頃は1泊2千円くらいで2食付きだったから、これを使って自分の小遣いだけで旅行に行けたのだ。
ところが最近はみんなリッチになってきたせいかとんと人気がなく、泊っているのは大学の「ユースホステル部」か昔を懐かしんで泊る中年ばかりらしいのだ。
なにしろ部屋は合部屋の2段ベッドで食事はセルフサービス。おまけに食器は自分で洗うは床掃除はさせられるはで、くつろげるような宿じゃない。
食後には「ミーティング」というのがあって、泊まり客は全員参加でイス取りゲームやフォークダンスを踊らされる。そして極めつけは酒は禁止という「明るい青少年育成」の施設だから人気がなくなるのも当然だろう。
もっとも僕はそういうルールを守るタマじゃないので、ユースホステルでのトラブルは絶えなかった。中でも函館のユースホステルでは大酒飲んでチャンチキやって、2年連続で「でていけーーっ!」と言われた。
出ていけと言われてもこっちは酔っ払いだから、そうそう素直に従うわけはない。
「なーにが出てけだ、くそばばあ。ぎゃっはっはっはっは!」
なんてやっていたのである。
久々のユースホステルは噂どおりユースホステル部と中年が半数を占め、あとは京都と言う場所柄、外国人の泊り客が多かった。
受付で案内された部屋に入ると2段ベッドが6台置いてある12人部屋だったが客は僕は含めて6人だった。
国籍不明のアジア系外国人でカッパみたいな頭をした男とマッドマックスにでてきそうなピアスだらけのモヒカン頭のアメリカ人。そしてチャールズ皇太子のような寄り目のイギリス人に日本人の中年のおじさん2人と僕。
カッパはにこにこ笑ってばかりいて、たまにしゃべると中国語みたいな英語でなにを言っているのかさっぱりわからない。
モヒカンは10代後半の若者で、ほとんどチンピラ。いつも口を空けっぱなしでしゃべると、「ペペラペペラ、ハッ。ぺぺらぺらぺら、ハッ」と言う調子で、日本人だったら、「俺はよう、アメリカから来たんだぜってんだよ。ざけんじゃねーっつんだよ、かったりぃ。ひとつよろしくなっ!」みたいな感じなのである。
鼻といわず口といわず、とにかくピアスだらけのモヒカン野郎なのだ。
チャールズはモヒカンと対照的で、紳士でございますとばかりに、美しい英語でお行儀よくしている。
「日本は美しいです。ワンダフルです。日本人は親切です」
なんて言っていたけれど、腹の中はわかったものではいという胡散臭さがあった。
日本人のおじさんのうちの1人は寝てばかりいて、寝ぼけまなこで一度会釈しただけで、あとは飯の時間になっても風呂の時間になっても、とにかく寝てばかりいる「三年寝たろう」みたいな男だった。
そして残る1人は独身のフリーター。40くらいでフリーターって言うと「アホじゃないか」と思う人もいるだろうけれど、だいたいそういう人でひとり旅をしているとなると、ほぼ例外なく面白い。
人生をなめているというか世間を気にしないというか、だいたい大物で、なにを語っても魅力的な雰囲気を持っているのである。
それでこのフリーターはどうかと言うと……ぜんぜん面白くないただの置物みたいな人だった。
我々の隣の部屋はどこかの大学のユースホステル部の連中だった。
それにしてもあのユースホステル部というのはどうにもいけない。あれははほとんど例外なく変態の集まりで、どこかの宗教信者の集まりのような雰囲気をかもし出している。
だいたい考えてみればわかる。楽しい楽園である大学に入って、何が悲しくてユースホステル部に入るのだろうか。非常に気味の悪い意味で「変わっている」に違いないのだ。
彼らはグループになるとちょっと恥ずかしくなるような盛り上がりがあって、メンバーには決してケバイ女は入ってなく、化粧気のない素朴な女子ばかりいる。彼女たちは素朴でうっかり手を出そうものなら処女だったりして、「結婚してくれなくちゃ死んじゃう」とか言い出しかねない危なさを持っている。
男は理屈っぽいやつが多くて、ルールというものにやたらとうるさい。ルール違反するやつは人間じゃないと思っているらしく、正義を主張するくせに違反者は平気で弾圧するようないやらしさを持っている。
笑い顔が非常にわざとらしく、グループ内では明るいくせに、1人になるとやたらと暗いのである。
足を踏み外してしまったというか魔が差したというか、とにかく大学時代にユースホステル部に入っていたという人がいたら、今度そのことは一切口にしないほうがいいと僕は思うのだ。
あれに入っていたというのは、「私、前科を持っています」くらいやばいインパクトがあるのだから。
僕は食事中に、お行儀よくルール通りにしているユースホステル部の変態達を見ながら、ユースホステル部ってそもそもなんなのだろうと考え込んでしまった。
普段の部活動ではいったいどんな練習をするんだろう。ただ泊まるだけじゃ部とはいえないから、「超正しいスリーピングシーツのたたみかた」とか、「こんなに楽しいミーティング理論」とか、はたまた「フォークダンスにおけるマイムマイムのステップと、嫌いな子とは手を繋がないで木の棒をで繋ぐことへの道義的見解」とか、そういう研究をするのだろうか。
或いは「ユースホステルにおける、はじめて来た客に『おかえりなさい』というあの白々しいおままごと的挨拶に見る正しいベルパーの行動分析学」とか、そういうのをやるのかも知れないと思いつつ、間違えてキュウリにソースをかけてしまった。
何はともあれ、あんな変な連中と一緒じゃなくてよかったと、僕は自分の部屋の連中の奇妙さを知るよしもなく、気楽な気持ちでアジのフライにかじりついていたのであった。
(つづく)