ヒラエッセイ

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1999年5月6日(木) 休暇取れぬはサラリーマンの花

「○×商会の松波嬢、またモルジブだってさ」
「いいよな、休める奴は」
「まったくだ。俺なんて30日連続出勤だぞ。死んじゃうよ」
 この不景気だから、どこの会社もリストラに必死だ。
 そして、リストラでギリギリの人数にしてしまったものだから、まるで休みが取れないと言う状況に陥った人もいるのである。
「いいじゃん、残業代ガッポガッポで」
「いいや、金よりも休みが欲しい」
 僕も昔プログラマーだったときに毎晩22時過ぎまで働いたけれど、確かに金よりも休みが欲しくなるのである。
「ねぇ、課長。僕もそろそろ休ませて貰えませんかね」
「ああ、そろそろいいよ日曜は。でも休暇はダメだぞ」
「そんなこと言わないで、頼みますよ」
「今休まれちゃ困る。何とか我慢してくれ」
 森岡君は本当に休むつもりがあったわけでもないらしく、課長の返事に対して外人が「オーノー」といいながら両手を上げるそぶりをまねて見せた。
「私も休みたいんですけど」
「お前もダメ。勘弁してくれよ。お前ら休んだら、どうなると思ってるんだ」
 橘君もまた両手を上げて、おどけて見せたのだ。
「ひでーよな。休もうとしても『他のものじゃわからない』とか、『キーマンなんだから我慢してくれ』ってんだからね。冗談じゃないよ」
「俺もだよ。この間なんて強引に休んだら、家にジャンジャン電話かかって来ちゃってさ。まったく休んだ気がしなかったよ。携帯電話の番号なんて教えるもんじゃないな」
「まったくだ。ははは」
「たまんないね。うはははは」
 みんな各部署を背負って立つ年代になったということもあるし、それに彼らはリストラ戦争で生き残った優秀な企業戦士でもあるのだ。
 それにしても不思議なのは、忙しくて大変で死にそうだというのに、この連中はいたって嬉しそうにその話をすることだ。
 だいたいにおいて「忙しい忙しい」というサラリーマンは余程のことがない限り本当は困ってはいない。
 ほとんどの場合は自分の必要度や重要人物度を感じて満足し、それを「困ったよ、忙しくて」なんて言いながら回りに宣伝したりしているのある。
 まったくサラリーマンとは妙な生き物だ。
 最近は会社人間はいなくなったと言うが、そんなことはない。
 どうやらリストラがまたもや新しい会社人間を生み出しつつあるらしい。
 僕に言わせれば、休みを取れないことを自慢するなんて、まったくつまらない連中なのである。
 有給休暇は我々労働者の権利だ。
 そんな権利すら守れないようでは、ろくな仕事などできはしない。
 僕はちゃんと主張をする現代企業戦士なのだ。
 会社よ。有給休暇はちゃんと取らせろ!

「僕も休みたいんですけど。どうですかね、課長?」
「もちろんいいよ、休んで」
「あのぅ……」
 ここまで簡単だと、ちょっと不安かも……。

1999年5月7日(金) 鋭い質問

 吉津部長は評判が悪い。
 吉津部長は交際費を湯水のごとく使うのだ。
「この間、課長がご馳走してくれたんだけど、がっかりしちゃたわ」
「なんで?」
「だって、レジで領収書とったのよ。てっきり自腹かと思ったら、交際費なのよ」
「ださーい」
 こんな事を言っているOLがよくいるけれど、これはアホだ。
 自腹だろうが交際費だろうが飲み食いの味に変わりはない。
 それに、交際費はその人の甲斐性のひとつだし、他で使えば使えるものを自分のために使ってくれたのだから、それはそれで感謝すべきなのである。
 だいたい、自分は一円も出してないし出すつもりもない。そのくせやらせるつもりもないのだから、図々しいのである。
 しかし、吉津部長は違う。
 彼は、交際費を部下のために使ったりはしない。
 全部、自分で使ってしまうのだ。
「四国へ行ってくる」
 吉津部長はこう言って、月に1度は四国へ足を運ぶ。
 しかし、足繁く四国に通っている割には、まったく四国でのビジネスは成り立ってないのだ。
「どうも、実際には出張なんてないらしいな」
 こんな噂もチラホラと聞こえはじめてきた。
 つまり、吉津部長は出張に行ったことにして、出張旅費や出張手当をチョロまかしているという話なのである。
 部長だから、出張の起案承認は自分になる。
 自分が起案して自分が認め、自分が行って自分が精算の承認をするのだから、出張のでっち上げなんて簡単なのだ。

 そんな吉津部長に、大敵が現れた。
 それは、「旅費精算システム」なのだ。
「いつから出張ですか?」
「いつまで出張ですか?」
「行き先はどこですか?」
「出張経路と利用交通機関を選んでください」
「仮払金額はいくらですか?」
 パソコンが喋るこんな質問にキーボードで答えていけば、自動的に出張の旅費精算ができる仕組みだ。
 みんなの事務作業を減らす為に導入したこのシステムだけれど、年齢の高い人は逆に苦手らしいのである。

「おい、ヒラリーマン。何だってこんな使いにくいもの入れたんだよ。紙でやればいいじゃねーか、紙で! こんな機械、捨てちまえ!」
 特に吉津部長はこれがお気に召さないらしく、文句ばかり言ってくる。
 しかし、吉津部長が旅費精算システムを嫌うのは、彼が機械音痴だというだけではない。
 稼働したばかりのこのシステムはまだ調整中なのだけれど、どうも調子が悪くて音声の頭切れが起きるのだ。
 それが最高に気にくわないらしいのである。
「まぁ、そう言わずに使ってくださいよ」
 吉津部長は渋々旅費精算システムのスタートボタンを押した。
 そしてシステムは動き出し、いつもの頭切れの質問が始まったのだ。

「カラ出張ですか?」
 しばらくなおさない方が面白そうなのである。

1999年5月17日(月) 3はジョーカーより強し

 課長と2人で外出をした。
 地下鉄に乗って20分。親会社へ交渉に行くのだ。
 交渉と言っても相手は親会社。白いものを黒だと言われれば黒。
 交渉と言える駆け引きなどどこにもない。無理を押しつけられて逃げまどうだけなのである。
 結局は、
「勘弁してくださいよぅ」
「お願いしますよう」
「何とかなりませんかぁ?」
 と、「お代官様おねげーしますだ」をやりに行くだけなのだ。
「まったく憂鬱だよな」
 電車の中で、課長がブツブツ言いだした。
「あいつらさ、いつも無茶苦茶言うだろう。自分たちが言うときは無茶苦茶なのに、こっちが要求すると正論を言い出したりして、頭に来るんだよな。特にあのお代官には腹が立つよ」
 通称「お代官」の小台部長はきわめて強気な人なのだ。
「ま、親会社ですからね」
「そこよ、そこ。世の中にあんな滅茶苦茶なことを子供に言う親がいるか。あれが親だったら幼児虐待だぞ」
「親会社なんて言う、言い方がおかしいんですね、そりゃ」
「そうだ。子供を食い物にする親なんて、いるかってんだよ!」
「しかし課長。相手はお代官様ですから、とにかくお願いするしかないですよ」
「それもわびしいよな。威張りやがってよ、あのお代官部長」
 前回親会社との間でコンピューター通信をする話を相手からお願いされたときには、
「通信の場合、どっちの要求であれお互いの設備はお互いが負担するのが原則です」
 という正論で、我が社には何の得もない通信システムの構築に1千万円も使ったのだ。
 ところが、今度当社の効率化のために親会社との通信システムを別に提案したら、
「そりゃあんた、受益者負担でしょう。このシステムによって利益を得るおたくが全額負担するのが当然。常識ですよ、あんた」
 と、こう来たのである。
「しかし前回……」
 と課長が食い下がったら、
「あ、そうでしたっけ。じゃ、そのときの判断がおかしかったんだ。おたく、そのときに突っぱねてくれないとダメですよ。今回は常識に従って行きましょう」
 と勝手なことを抜かしてきたのである。
 しかし、親会社のシステム部長ともなれば、いつ子会社である我々の重役になって降りてくるかわからないので、
「何を言いやがる、この2枚舌野郎!」
 とケツをまくるわけに行かない。これが子会社管理職の辛いところなのである。

「というわけで、システム構築をお願いします」
 会議が始まり、吉田部長が概略を説明した。
「なるほど。内容はわかりました」
「それで、今回も何とか費用は折半でお願いできないでしょうか、お代官様」
「は?」
「いえあの、おねがいします、小台部長」
 電車の中で「お代官」などとずっと言っていたので、ついポロリとでてしまうのだ。
「しかしねぇ、吉田さん。電話でも言ったとおり、これはおたくが受益者ですからね。おたくが全額負担してくださいよ。ねぇ?」
「そこをなんとか、かおねげー……いや、おねがいします」
「だめだね。なぁ、ヒラリーマン君。君なら理解できるよな、この常識。おたくの課長さんとよく話してくれんかね、ヒラリーマン君。だいたいうちのホストコンピューターは今年いっぱいでリース切れで、来年は新しいマシンに乗り換えるんだ。基本ソフトを変えるので今のシステムはそのままじゃ使えない。たった1年弱しか使えないシステムを他社のために金を出して作るなんて無理だしね」
 そういうとお代官は足を組み、タバコの煙を会議室の天井に向けてぷかーっと吐き出したのである。
 実に偉そうなのだ。
 とりつく島もない。そんな感じなので、課長はガックリしているのである。
「な、そうだろ、ヒラリーマン君?」
「はい。それはもう小台部長のおっしゃるとおりです。すると部長、来年御社のホストコンピューターを入れ替えるのは御社のご都合ですから御社が受益者。すると通信システムを作り直すときに我が社のシステムにも手を入れなくてはいけなくなってもすべて小台部長の方で全額負担してくださると言うことでよろしいわけですね? 確か御社はA社、B社とも通信されていますが、そちらさんのシステム改造費用も小台部長の方でお出しになるわけですね? 大変ですね、そりゃ。あはははは」
「それは……」
 いくらお代官が重役できても僕には関係がない。重役は部長、課長の成績に関与しても、平社員には関与できない。平社員の成績は部長がつけるのだから。
 何よりも強いジョーカーも一番弱い3には負ける。そんなトランプゲームと同じなのである。

「さすがヒラリーマン、よく言った」
「平社員の強みですよ、あははは」
「小台さんは5年後にはうちの常務かも知れーねーもんな。その点おめーは5年経っても平社員だ。なかなかいい読みしてるな、おめー」
「げっ」
 そこまで読んだつもりはないのだ。くそ。

1999年5月19日(水) サンディーは盲導犬

 課長と親会社に交渉に出かけた帰りの地下鉄で、盲導犬を連れた盲人の20才くらいの女性が車両に乗ってきた。
「おい、ヒラリーマン。おめーあの子に席を譲れ」
「はい、課長」
 僕は席を立ちそしてその女性に席を勧めたのだ。
 彼女は僕に礼を言うと、ゆっくりと課長の隣の座席に座った。すると連れていた盲導犬はチラリと僕の顔を見ると、彼女の足下におとなしく伏せたのである。
 盲導犬は他の犬とは違って、回りのものをキョロキョロ見たり匂いを嗅ぎ回ったりしない。おとなしく主人のもとに待機しているのだ。
「お利口さんですなぁ」
 課長が女性に声をかけた。
「この子ですか? ええ。サンディーっていうんです」
「可愛い名前ですな。日曜日にでも生まれたのかな、あはははは」
 そりゃサンデーでしょうが。
「さぁ。私のところに来たときにはもうこの名前でしたから」
 彼女はサンディーの腰にちょっとだけ手を乗せて、にこやかに微笑んだ。
「可愛いですねぇ、ええと盲導犬でしたっけ。お利口だ」
 課長が頭をナデナデした。サンディーはでへへと言う顔でちょっと嬉しそうだった。
「この子は盲導犬です、盲導犬。あ、申し訳ありませんが撫でないでください」
「は? 盲導犬をナデナデしちゃダメなんですか?」
「はい。基本的にはダメです。そういう接し方をすると、ただの愛玩犬になってしまうんです。そして、このベルト、ハーネスというのですが、ハーネスをつけているときには絶対に猫撫でをしてはいけないのです」
「へぇ。そりゃまたどうしてダメなんです、ハーネスつけた盲導犬を撫でちゃ?」
「ハーネスをつけたときには仕事中だという意識を持たせています。撫でるときには必ず、ハーネスを外したときにします。サラリーマンのネクタイみたいなものです。でも、それでも可愛がりすぎてはいけません。辛いですけど、仕方ないのです」
「へぇ。盲導犬はハーネスがネクタイですか」
「制服と言った方がいいかも知れませんね、盲導犬の」
「それが盲導犬の運命ですか」
「はい、それが盲導犬の……」
「盲導犬は自分で買ってくるんですか?」
「買ってくるというのとは違います。支給と言った方が……。でも、簡単には手に入らなくて……」
「でしょうね。訓練が大変でしょうからね、盲導犬」
「ええ……」
「何歳なんですか、この盲導犬?」
「3才です」
 彼女の表情は課長が喋る度に次第に少し曇っていった。
「へぇ、3才馬かぁ」
「犬です」
「あ、そうでした。ところで何食べるんですか、盲導犬?」
「ドッグフードです」
「そりゃそうですね。盲導犬も犬でしたね」
「……」
 何か気に障ったらしく、ついに彼女は口を閉じてしまったのだ。
「しかし、いい盲導犬ですね。毛並みがいい」
「……」
「はじめてですよ、こんな近くで盲導犬見るのは」
「あの、ここで降りますので、失礼します。席、ありがとうございました。それからサンディーは、盲導犬です」
 彼女はなんだかツンケンした感じで、電車を降りていってしまった。

「なぁ、ヒラリーマン。なんだかあの子、怒ってなかった? 俺、何か悪いこと言った?」
「いや、課長に悪気はないと思いますが……」
「俺はよ、ハンディキャップというものに理解をして、そういう方々ともっと交流して社会に貢献しようとか思っているわけよ。だからいろいろお話ししただけなのに、なんで怒っちゃったんだろう?」
 課長の滅茶苦茶な日本語も、ハンディーキャップと言えばハンディーキャップ。
 悪気はないとわかっていても、気分を害することだってないとは限らない。
 横で聞いていると毎度の事ながら、冷や冷やするのである。
「俺がいったいなに言ったって言うんだよ、ヒラリーマン!?」
「はい。ずっと『ドウモウケン』と言ってました」
「ん?」
 それでもわけが分からない、吉田課長なのであった。

1999年5月24日(月) お昼ご飯はクソ食らえ

「コロッケカレーください」
 サラリーマンの楽しみというのはいろいろあるけれど、毎日のささやかな楽しみと言えば、やはり昼御飯なのだ。
 12時の鐘が鳴ってからすぐに会社を出るとレストラン街はごった返している。だから、インチキして早めに出るか、それとも僕のように12時半を過ぎたくらいにのんびり出かけるに限るのである。
「お待ちどうさま。コロッケカレーです」
 どこかの食品会社から「コロッケカレー」が発売されたとき、なんと邪道な食い物だと思ったものだけれど、食べてみるとこれはなかなか味がマッチしている。
 そのせいか、街の多くの洋食屋でこのメニューが採用されているのだ。
 この店は節操のない食堂で、洋食もあれば和食もある。そして中華も寿司もあるというオールマイティーなのだけれど、それでいて味はなかなかなのである。
「ヒラリーマンさん。ここ、いいっすか?」
「なんだ、来てたの。気がつかなかったよ」
 後輩の矢田君が先にこの店に来ていたらしく、自分のトレーを持って移動してきた。
 時間的にもう客はまばらなので、ゆっくりと食べることができる。
 別に相席になっていてもいいのだけれど、僕が嫌なのはマナーの悪い人が多いことだ。
 自分が料理を待っている間、隣の見知らぬ人が食事をしているのに、平気でタバコを吸う無礼者が実に多いのには閉口してしまう。
 その点、こんな空き具合だと場合によっては席を移れるから便利なのである。

 料理も運ばれて矢田君と2人で他愛のない話をしながらランチを楽しんでいたら、サラリーマン2人が隣のテーブルに座った。そして大きな声で喋りだしたのだ。
「何にするかなぁ」
「牡蠣フライなんてどうですか、課長?」
「牡蠣かぁ。俺今、下痢してるんだよな。朝からカレーみたいなクソたれちゃってさ」
 僕はその横でカレーを食べているのだ。
「じゃ、だめですね。僕はミックスフライにしようかな」
「フライかぁ。ここのコロッケ、犬のウンコみたいな奴だよな。何か堅くて胃にもたれそうだな」
 コロッケも食っているのだ。
「じゃ、やめて、カルビ焼きにします」
「俺もそれでいいや」
「ところで課長、ウンコって言えば、この間会社でうんこもらした奴いるの、知ってます?」
「あれか。うんうん」
「小学校の時とか、うんこもらすと悲惨ですよね。あれ、20年後の同窓会でも話題になりますから」
「そーんなんだよ。あのな、俺が幼稚園の時……」
 よりによってこの2人、僕がカレーを食べている間、ずっとウンコの話をしているのだ。
 他の周りの人もたまにチラリと見て嫌な顔をしているけれど、カレーを食べているのは僕だけ。
 食欲はめっきり落ちてしまったのである。

「あいつらひどいですね、ヒラリーマンさん」
 矢田君がこそこそ声でそう言った。
「下品きわまりないね。食べる気なくなったよ」
「ヒラリーマンさんも反撃してくださいよ」
 矢田君がいたずらな顔でそう言うと、2人は顔を上げてニカッと笑い合い、そして大きな声で喋りだしたのだ。
「矢田君」
「何ですか、ヒラリーマンさん?」
「この間の飛び込み、凄かったらしいよ」
「ああ、山手線の自殺の話ですか」
「そうそう。もう人間じゃないみたいにぐちゃぐちゃになってしまって、カルビみたいな肉が飛び散っていたらしいぞ」
「人間カルビですか」
「それはもう100グラム1000円くらいの高級カルビみたいな色だったそうだ」
「辺り一面血の海だったらしいですね」
 丁度そのとき、ウンコサラリーマン達のテーブルに、カルビが運ばれてきた。しかし、2人はなかなか手を付けないのだ。
「もうカルビは飛び散るし、キムチの汁みたいな真っ赤な血が……」
 カルビ焼きにはキムチも少しついてくるのだ。
「うわぁ、気持ち悪いですね」
「臭いも凄かったらしい。これまたカルビそっくりで……」
 ざまーみろ。2人の箸はとまったまま。すっかり食欲を失ってしまったのである。

「効きましたね、ヒラリーマンさん」
「当たり前だ」
「ここで一つ、だめ押しをお願いしますよ」
 食い物の恨みは恐いのだ。こうなったら完全に食えなくしてやるのである。
 僕は一段と高い声で、もっとも気持ち悪いことを言ってやった。
「脳味噌まで飛び出していたらしいぞ。豆腐を潰したようなグチュグチュの奴だったらしい。あー、いやだいやだ」
「そりゃないっすよ、ヒラリーマンさん」
「なんで?」
 矢田君、マーボ豆腐定食だったのだ。


(あとがき)
 サラリーマンをやっていてつくづく思いますが、どうしてあんなに毎日のようにサラリーマンが電車に飛び込んで死ぬのでしょう。
 ほとんど仕事上の悩みらしいけれど、どうせ出世しても定年になれば厄介者のように追い出されるのが会社と言うところ。命を投げ出すほど悩む場所ではございません。
 そんなもののために人間カルビになることはない。
 スーツ姿で線路脇に倒れているその姿を見ちゃったりすると、僕は彼の妻子のことを思って胸が締め付けられるわけです。
 これをよんで、
「カルビはきもちわりーな。やっぱやーめた」
 と飛び込みをやめてくれる人がいたら、幸いです。
 他の方法でやってください。じゃなくて……。

1999年5月27日(木) サッカー改造論

 僕はサッカーが嫌いだ。
 いや、サッカーが嫌いなのではなくて、テレビでサッカー観戦するのが嫌いなのだ。
 野球だったら、
「2アウト満塁。バッターは高橋。今日の高橋は3打数2安打。ボールがよく見えています」
 こうアナウンスされれば、
「おお、ここはじっくり見なくちゃ」
 と、精神を集中して中継を見ることができる。
「さて、この回はピッチャー、ガルベスからの攻撃です。今日のガルベスは好投を見せていますねぇ、落合さん」
「大したこと無いですよ。相変わらず投げるときにベロを出すし。打つときもベロ出すのかなぁ」
 偉そうに……。
 こういうくだらない話をしているときにはトイレに行って、すっきりする事もできるのだ。
 ところが、サッカーはいけない。
「ヘックション! うひーーーーっ」
「ゴーーール。ゴーーーーーーーーール!」
「え、なに? どしたの? なんで?」
 いままで神経をとがらせて凝視していたのに、くしゃみをして目をつむったその一瞬に、本日一回きりのゴールが決まったりする。
 頭に来るのだ。
 2アウト満塁の緊張場面もなければ、ピッチャーマウンドに選手が集まってこそこそ話をするような間の抜けた時間もない。
 まるで気が抜けないのである。
 ビールなど飲みながらサッカーを見ていて、なおかつ見せ場を逃すまいとすれば、膀胱炎になってしまうのである。
 だいたい僕は、サッカーのあの曖昧なルールが嫌いだ。
「ゴールキーパー以外、手を使ってはいけません」
 ちゃんとこう決まっているのに、ボールを競り合っているときには明らかに手を出して相手を突き飛ばしている。
「あの程度はいいんだ」
 これがいや。
 手を使ってはいけないというのだったら、まったく使うなと言いたい。この程度ならいいとかあれはちょっと使い過ぎだとか、はっきりしないのである。
 だいたい、人間「手を使うな」と言われても、そうそうできるものではない。自然にでてしまうのが人情だ。
 だったらいっそのこと、手を使うルールに変えてはどうだろうか。
 まず、選手は全員ボクシングのグローブをつける。敵味方がわかりやすいように、赤いグローブと青いグローブにするのがいいだろう。
 そして、選手はボールを持っている人と、それを奪おうとする人の間でのみ殴ってもいいことにする。
 もちろん、パスされたボールをまさに今ボールを取ろうとした人に対しても攻撃でるのだ。
 こうなると、ゲームは俄然面白くなる。

「さて、コーナーキックです。おーっと鮮やかにセンターに上がった。そこを三浦が飛び込んでヘディング……おっとーーっ、ヘディングの瞬間にゴンの右フックが決まって、ボールはそのまま転がってキーパーに! 見事なディフェンスです」
「ワン! ツーッ! スリィー!」
「レフリーがカウントをはじめています」
「ナイン! テン! ダウン!」
「おっと残念、カウント10。三浦はダウンです。これでベルマーク川崎は1人退場です。10人体制での厳しい戦いになりそうです」
 ゴールなんて滅多になくても、競り合っていたり、シュートの瞬間になると左右からパンチが飛んでくるから、見せ場がたくさんできるのだ。
 見せ場がたくさんあれば、一つや二つ見逃したところで、どうってことはない。
 ヘディングをして地上に降りきる間には、アッパーカットを食らわしてもいいというルールもあるので、選手は無意味なヘディングはしなくなる。
 おかげでただボールに触りたいだけみたいな、つまらないヘディングを見なくて済むのだ。
 こうなると選手の幅も広がってくる。
「センターリングが上がったぁ。おっとぅ。絶好のセンターリングでしたが、だれもシュートの体制に入りません。ボールはころころと転がったままです。いったい今のはどういう事でしょうか、石松さん?」
「ええ。今はそばにマイクタイソンがいましたからみんなビビッたんでしょう。シュートの体制に入るとタイソンの殺人パンチを浴びるのは必至ですから」
 ボクシング界からも選手が転向してくるし、張り手が得意なお相撲さんや、空手の選手もどんどんサッカー界に再就職するようになる。
 解説もサッカーだけでなく、元ボクサーも参加できるのだ。
 今まで僕と同じ理由でサッカー観戦しなかった人たちも、これなら気軽に見ることができるようになって、興行成績も上々。
 いいことだらけなのである。

「ね、樹理ちゃん。どう思う、このアイデア? これならサッカー観戦も野球並に気軽にできてたのしいと思わない?」
「そう? 別に野球みたいにならなくてもいいんじゃないの。野球ってケチ臭いし」
「ケチ臭い? なんで?」
「だって、シーズン前にキャンプとかするじゃない。宮崎行ったりハワイに行ったり。みんな年俸高いくせに、どうしてハワイにまで行ってホテルに泊まらないでキャンプなんてするのかしら?」
 どうやら樹理ちゃん、プロ野球のキャンプはテントを張って野営をしていると思っているらしいのだ。
 こういうオナンコナスな人に僕の高度なサッカー論を話しても無駄なのである。
「やっぱりぃ、みんなで大鍋にカレーとか作るのかしらねぇ?」
 ボーイスカウトじゃねーんだよ。
 やっぱり他の人に話すことにするのだ。

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